それがノスタルジーへと変わる前に

「音楽やってる人はかっこいい アイドルやってるコはかわいい とか あれから何年が経ったんだっけ 時々自分がわかんなくて それすらも当たり前になって 久しぶりに君と話したいね なんて思ってる 電話はしないけど」

寂れた街の二畳半

昨夏から、寝る前にTikTokを掘ってる。なんか自分はターゲットじゃない気がするから、少し恥ずかしい。

きっといいねの履歴とかでパーソナライズされてるんだろう、下へ下へとスワイプすると、自分よりも若い子たちのキラキラした一面や興味のある事柄に関連した動画を見ることができる。

TikTokに動画を上げている人たちは、それぞれの魅力に自覚的だなあと思う。他人からの視点、社会の視点を内面化して、それを踏まえて動画を上げてる。まだまだ変化の余地のある10代の子たちのアイデンティティを固定化してしまいそうだなあと、そろそろ「若者」の枠からはみ出してくる年齢になった僕は思うよ。親心。

 


それでですね、TikTokのおすすめは下へ下へと行くほどパーソナライズされたものとのマッチ度が低くなってくると思うのね。でも見ちゃうのよね、上手くできてる。無限に時間を浪費していく。

例えばこの間、午後11時から午前3時まで見てたときは中学生の女の子がLINEできる人募集してる動画まで行き着いた。大丈夫かと思ったけど、たくさんの人がやめとけってコメントしてたのでスルーした。

つい一週間ほど前、また深夜2時ぐらいまでTikTok漁ってたときに、お顔が好みの方に行きついて、インスタを覗いてみたら、夜のお仕事をされてる方だった。

その日はなるほど、と思ってスルーしたけれど、日が経つにつれずっとその子のアカウント見に行ったりしてて。これはいよいよダメだと思い、お店に行くことにした。

この手のお店に行くのはこれまでなかったのと、お顔が好きでずっとインスタとTikTokを掘り下げてたのも手伝って、ひどく緊張した。推しとチェキ撮るときに何話していいか分からないときのあの感覚だった。

アイドルのおたくだかわからない存在になって、コロナ禍でアイドルとも接触がない中、近年稀に見る緊張だった。全くサービスの内容というか自分の感覚に集中できなかった。そんなこんなで終わり(描写したくないので割愛)、色々話したが、話せば話すほど、その子の生の人生に触れる感覚があって、本当に申し訳ない気持ちになった。

コロナ禍で仕事がなくなってこの業界に来たこと。インスタや TikTokでみんな来る来る言うけど全然来てくれなくて、TikTokきっかけって言ってくれたお客さんは初めてだったこと。小さい頃に就きたかった仕事をアルバイトとして週一回やっていること。(ディズニーキャラクターの)チップが好きで、個室にぬいぐるみを置いていること。

そのぬいぐるみは、彼女の仕事を見守るように置かれていた。

「基本大人は信じていないから」という呟き。

歌舞伎町で派手に転んだときについた傷と瘡蓋。

二畳半ぐらいの個室で過ごした約1時間に、ほぼミルクティーしか飲まない彼女のこれまで過ごしてきた時間が浮かび上がった。

 

 

他人の人生に触れることの怖さよ。

 

その人らしい語りを聞いたとき、自分の人生において背負うものが一つ増えたなという気がする。

また少し、生が重みを増した。

例えこれから関わることがなくても、あなたがどこかで僕に影響を与え、今の自分を作ってくれているから、ちゃんと生きていこうと思える。

 

口コミを見ると、みんな自分の好みをさらけ出して、その通りにサービスを受けている。自分には難しかった。そこら辺は慣れなのだろうか、よく分からない。

他のお客さんは、僕みたいにぐるぐる考えたりして同じような気持ちになったりするんだろうか。

 

 

 

 

 

店から出る。

空は高い。肌に触れる風は涼しい。

 

個人経営の居酒屋を思わせる佇まいの物件、スナックらしき物件。それらは決まって、もう営業していない。他の建物よりも少し新しめの5階建てのビルにもほとんどお店やオフィスが入っていない。

「寂れた」とはこのことかと思わせる。

かつてこの一帯は夜の街として栄えていたであろう。

 


車のエンジンをかけた。

車内に置きっぱなしにした缶コーヒーはすっかりホットコーヒーになっていた。

ハンドルへと伸ばした腕を、太陽がじりじりと照らした。週間予報を見ると、ほとんど毎日、夏日となるらしい。季節は春から夏へ変わっていっているようだ。

 


帰りは、高速道路を使わないで帰ろう。

 

みぞれ降る夜、中村橋駅にて。

この雨は夜更けに雪へと変わるだろう。

 

緊急事態宣言下、僕は一人赤羽駅へと繰り出した。朝は寝坊して任意参加の朝の会議を休み、緊急招集もすっ飛ばして、県境を跨ぎ、赤羽駅へと辿り着いた。外は寒く、寝起きの布団から出してスマホを弄る手が悴むほどの気温だ。

 


緊急事態宣言下とあって、居酒屋は人が少なく、予約かどうかの確認なしに席に着くことができた。やきとんに定評のある店だ。鶏肉が苦手だから、やきとんの店を選んだ。お互いの食の好み、人としての相性、どちらも合う気がしている。

でも、お互いにそれを知りつつお互いの別々の人生であることを受け入れて尊重する、そんな関係に正解を見出している。

 


お互いにそれを正解としているのだから、正解に違いない。

互いに認める正解こそが正解なのだ。

 


これまで友情を超えた、代わりの効かない関係性を恋愛と思い生きてきた。でも、恋愛に転換すると限界にぶち当たる。だから、どれだけ仲良くなろうと恋愛としての関係性に踏み込めないのだ。

 

 

 

彼女こそが独身最後に飲む相手なのかもね。

 

 

 

この人と濃厚接触者なら、それは仕方ないと思う。むしろ光栄ですらある。

それぐらいの相手と出会えて幸せだったな。

 


また、また。

家族ぐるみでの関係性が築けたら。

 


その日まで、しばしのお別れ。

「あなた」と逃避行

最近、やっとコミュニティの力学が分かってきてまた一つ人間社会への適応の典型である「社会人」に近づけた気がする。

コミュニティにおいては、そのコミュニティに属する人々に向けて「私はこのコミュニティのルールに適応しようとしてます」みたいなアピールを新人としてすべき。おおよそ全てのコミュニティはそういう暗黙のルールに適応できる者を受け入れてきたわけだ。

これまでずっと、「人間社会において、詰まるところ、私とあなたしかいないんだ」という世界観で生きてきたので、複数の人々が属する「コミュニティ」という場所の力学というかルールに気づけたのは、自分にとって大きな成長だなと思う。

 


しかしながら、やっぱり一番強いのは「私」と、私という存在を直視する労力を割いてくれる他者(=「あなた」)なんだよな、と思う。

「社会人」に大きく近づいてもなお、「あなた」という、私を直視してくれる存在から離れられないでいる。

 

 

 

 


先日、関根ささらさんにひさしぶりに会った。会った、と言ってもオンラインでのやりとり、しかも僕から彼女に対しては文字のみのコミュニケーションだったが。

「チェキチャ」というアプリを介して、お会いした。

 


いざ、順番が回ってきて、開口一番、「こたろーくん!」と。彼女に名前を呼ばれると、心に火が灯る。暗闇に突然灯ったその火はあっという間に勢いを増し、心を沸騰させる。

自分の順番が来るまでは、購入した枠を捨てて、やっぱりお会いするのやめようかと迷っていた。話すことやら、あれこれ考えて、悩んで、心臓の鼓動がわかるぐらいに緊張して。オンラインであれど、特典会の列に並んでいるときと同じ感覚。ただ違うのは、僕がいる場所は自分の家であるということだ。改めて思い返すと、本来安心できる場所であるはずの自宅にいながら、あんなに緊張していた自分が滑稽に思える。

 


関根ささらさんの声を聞いて、少し前の悩んでいた自分が馬鹿らしく思えた。

 


好きな学者のプロジェクトに参加できることになった話をすると、自分のことのように喜んでもらえた。絶対に本の形になったらお送りしたい。

関根ささらさん。僕の中で間違いなく大切な存在で、自分の頑張りを見守ってくれている(気がする)ので、本当に活動を続けてくれていることを有難く思う。

(関根ささらさんの好きなポイントですが、「ありがとう」という柔らかい文字列じゃなくて、「有ることが難しい」という意味を強調して「有難う」と書くところです。彼女へのリスペクトを込めて「有難く」と書きました)

その、彼女が見守ってくれている感覚は、僕の中で勉強したり、論文やら小説(まだ書けてないけど)、こういうブログやらを書こうと思う原動力になっている。現場に顔を出さないにしても、僕は彼女の活動を微力ながら応援させてもらってるのは、彼女に対する恩返しみたいなところがある。

 

僕はこう感じるんだけれど、他のおたくはどうなのかな。他のアイドルおたくの人生、聞きたいね。 

 

 

 

 


関根ささらさんに、似たような感覚を感じるのは、文通相手氏だなと。ふと思った。

文通相手と会うとき、ありえないぐらいに緊張する。彼女とは長く続けてたバイトで、週一で行ってたヘルプ先で会って、それを含めると5年ぐらいの付き合いになる。

彼女が大学卒業する前、バイト辞める日にLINEを聞いた。飲んだり文通したりなんだりし始めて、2年半ぐらい経つけれど、未だに緊張する。というか、なんなら昔は会うときに緊張しなかった気がする。

 


家族や恋人、友人といったカテゴリーを超えた「他者」に惹かれるの、確実に関根ささらさんと文通相手氏の存在が大きくて、それから専門分野と日々の支援の対象である人々、そして僕と「あなた」という関係を築いてくれた過去出会った人々への感謝と責任によるものが大きいな。せっかく修士課程まで終了したので、仕事もやりたいことに近づきつつあるので、自分の出会った人々から得た感覚を、この社会に残していきたいね。

 

 

 

なんか真面目な話になっちゃったね。

仕切り直し。

 

 

 

 


今年に入ってから、漫画をよく読むようになった。好みの小説と一緒で、日常の延長にあるような、写実的かつ純文学的な作品が好きなんですね。

『雪女と蟹を食う』『娘の友達』『ひとりぼっちで恋してみた』は好きなんだけど、どれも逃避行という点で一貫していて、自分らしいなあと思っている。

 


自分も昔から「ここじゃない、まだ見ぬどこかへ行きたい」と思っていて、今の仕事も割と安定はしているけれど、定年まで続けるつもりはなくて、また違うところにいきたいなあと思っている。

 

 

 

 


関根ささらさんにお会いしたり、文通相手に手紙を書いたり飲んだり、そういうのって日常から逸脱した、自分にとってのささやかな逃避行なのかな。

 

 

 

 


「二人に感謝と愛を込めて」

みたいなあとがきで終わらせたくなるテンションのブログでした。

 


こうやっていつも斜に構えちゃうんだよな。

でも、「こたろーくんの文章好き」って言われたらまた読んでもらいたいからって、こうして書いちゃうぐらいには単純なんだけどね。

現に存在するものとしての人間の愛おしさについて


ひどくハイデガー臭のするタイトルになってしまった。

でも、この世界に現に存在する人間というものは愛おしいなと一人で電車に乗りながら気持ちを抑えられなくてここに吐き出すことにした。

 


現に存在するということはいかなることか。これは別にハイデガーの現存在を特に参照しているわけではないが、同カテゴリーにおける複数の属性や選択から一つを得るということではないかと思う。

例えば水が「熱い」と「冷たい」という二つを同時に獲得すること(つまり、「熱くかつ冷たい」という状態)がありえないということである。もっと人間に近づけるのであれば、この文章を書いてる私が、この文書を読むあなたと同じ人間になることができないということである。私はあくまで生まれ落ちたこの世界に生きるしかない。

でも、生まれ落ちたこの世界において生きるしかなくとも、選択によってある程度は生きる世界を変えることができる。

 


日常的に付き合う人が変われば見える世界は変わるはずだ。どこの世界に行くのも、突きつめれば自分次第だ。

 


結婚とは、その象徴ではないかと思う。結婚という文化的かつ法的にある程度あるべき姿(一夫一妻制)が定められているものは、人生における「同カテゴリーにおける複数の属性や選択から一つを得る」現象を象徴している、そんな気がする。

 


だからこそ、同時に獲得できないものの中から一つをを選び続けてここまでたどり着き、私と同じ時間を過ごす人間たちが愛おしくもある。それに例外はない。苦手な人でさえ、ある部分では愛おしく思う。

同様の感情は、昔好きだった人から結婚報告を受けたときにも色々な思いがせめぎ合いつつも湧いてくる。本当に、幸せになってくれと思う。

 


昔の日記とかを見て、心が動かされて、手紙久しぶりに書いたりして心がおセンチになって、抽象的に書き殴ってるからよくわからないかと思うが、人生はそういうものだよという話。他者の人生というのは儚く人間は愛おしい。自分の人生も選びつつ、人間の本質に近づいていきたいよ。

可能性を閉じる

久しぶりに書く。今日は書くと決めたから、書く。

転職して、専門分野ど真ん中の、古い体制の残る場所にきた。職場と家はめちゃくちゃ近い。通勤時間なんか徒歩で数分。

引っ越しに恋人(便宜的にこう表記する)がきたため、職場の人間に恋人がいることが知れ渡ることとなる。

 


別にいいけど、いいんだけれど、その狭さに、息苦しさに、モヤる。

 

 

 

帰宅後に、ありあわせの食材で料理して、一人分の料理を作る(と言ってもかなり多めに作って、次の日の夜までその料理を食することになるのだが)。

食欲を満たした後に、勉強意欲、睡眠欲、執筆欲、創作欲が顔を出す。全てを同時に満たしたくなって、ぐちゃぐちゃになって、お酒を飲んで眠る。

そんな1週間だった。

 


今まではほぼ同棲してて、僕だけが引越してきた形になるのだが、離れてみると、LINEや電話をまめにしなきゃいけないのが面倒に思える。

どうやってコミュニケーションとっていたかすら、今はおぼろげだ。

 

 

 

新しい職場で、上司らのLINEを登録するにあたって、久しぶりにLINEを開いて「友だち」を開く。

こんな知り合いいたかと、最後の会話を見ると当時の記憶が蘇る。

 


その中に、苗字の変わった人がいた。なるほど籍を入れて苗字が相手方の苗字になったのだ。

 

 

 

 


中国では婚約式を行うそうだ。

 

 

 

 


人生とは、物語とは、進行とともに可能性を閉じていくものなのだ。

 


それが良いとか悪いとか、幸福とか不幸かとか、そういう価値判断をしたいわけではなくて、ただそれ自体を感じたまでである。

 

191210

【この雑記について】

この雑記を始めた動機は、心に浮かんだ由無し事をiPhoneのメモ帳に書き溜めていて、それをネットの海に流したいと思っただけですね。

 


【新聞】

最近、電子版の新聞の購読を始めた。初めの2ヶ月は100円となっている。信憑性が低いネットの記事や、あたかもきちんと裏を取っているような語り口でフェイクニュースが拡散されるTwitterにうんざりしてきた。昔からTwitterにお金を払ってでも利用したいと思っているが、情報のプラットフォームお金を払いたいということなのだと気づいて「ああ、新聞読めばいいのでは?」となった。

一連の政府の問題に対して、ジャーナリズムという点で毎日新聞さんが頑張っていらっしゃるので、購読させていただいている。

どの世界でも、意思を強く持つ者が報われていて欲しい。

 


【ケムリ】

学生時代の同期と飲んだ。みんな結婚いつするだの、そんな話をしていた。少し会社員とは違うところのキャリアを志向しているから、転職とかそういった諸々の話にはついていけないなあ、と思った。

彼らに思い切って文通相手の話をしてみたが、断片的な説明しかできなかった。彼女について少なくない言葉を重ねてきた自分が、彼女について説明するための言葉を持っていなかったことに気づいた。

タバコの煙はそこにあり、確かに香るのに、手に取ることはできない。この感情とはそれに似ている。そもそも感情とは手に取ることができないものだろう。しかし感情というのは捉えられると考えている。楽しい嬉しい悲しい寂しい切ない。全て言葉が与えられている。その意味で捉えることができる。

関係性もそうだ。恋人友人家族先生学生店員客。しかし一握りの人間と結ぶ関係には言葉が与えられていない、ただそこに巨大な感情が横たわっている。それを、たかだか数時間の飲み会で、全部説明できない、当たり前だ。

 


【研究という表現行為】

修士課程を卒業して半年以上経って、研究という営みがある程度理解できるようになった。

自分のお世辞にも上出来とは言えない、ツッコミどころ満載の論文。見返すのも恥ずかしい。しかしこの程度のものでも修士は取れてしまうし、大学で教えている人間に「この程度の見識しかないんか」と思うこともある。

修士課程は研究のルールを覚える場所」という話を先生たちが言っていた。僕の修士での研究は方法としてはエスノグラフィーに、人間の捉え方としては「ケアの倫理」に立脚している。今後やりたい研究はそこらへんに集約される感じがする。

修士課程での研究は指導教員の影響を受けている。今後やりたい研究が修士課程での研究が影響の延長にあるということは、究極的には指導教員の影響の延長にあるということだ。

大学入学してすぐの頃、「研究とはクリエイティブ」という話をされたのを思い出す。文学部棟の大教室に2〜3専攻ごとに新入生を集めた講義があった。

僕は最近、ハイデガーの『存在と時間』における人間理解が現在の専門領域における人間理解と近いことに気がついた。僕は学部の頃、哲学専攻だった。先の気づきも、おそらく哲学をやっていたことに起因している。

自分のバックグラウンドは、やはり研究に少なからず影響する。研究とは表現行為だ。

191126

【おたくについて】

何も参考にしていないが、一般的におたくの定義は以下のところかと思う。

①アニメやアイドルなどのサブカルチャーポップカルチャー)を嗜好する、又はある特定の分野に関して他者を圧倒する知識を持つ人、または集団。

②上記①から派生して、その集団が形成する価値観を持つ人

定義以前の問題として、〈otaku〉という音声にどういう表記を与えるか、という問題がある。「おたく」「オタク」「ヲタク」。僕は「おたく」という表記を取る立場だが、ここらへんをいつか整理したい。

 

【教養としてのアニメ】
ここ一年ぐらいは、過去のアニメを観ている。名前を聞いたことのある作品は、絵が好きでなくとも、観てみると面白かったりする。現在、アニメがおたく以外の人々にも広く受け入れらるものとなったわけだが、やはり創作物はその時代を反映していると言えるし、近い将来「ある程度主要なアニメ作品を知っている」というのは一つの教養となるんじゃないか、というような気がして、だから観ているというところがある。

supercellの「君の知らない物語」、それから花澤香菜の「恋愛サーキュレーション」は曲としては知っていたのだが、どちらも『化物語』で使われていたとは。

 

【会社という意味の場】

人生なんでもいいという、オールOKな人間なので、仕事だったりでみんなピリピリしたりするのがよくわからなかったのだが、なんとなく分かってきた。人生がそこにあるんだろう。

そこで生きていく覚悟を決めた人にとってはそこでの評価が今後の人生を左右する。

そういう場所は、なにかで給与をもらう人にとっては必ず存在するのだが、それが会社であるということか。スポーツ選手にとってはそのスポーツだし、研究者なら研究だし、それが仕事と言われればその通りなのだが、なるほどな、という発見めいたものがあった。会社で働くというのは給与をもらうという以上の意味がある。

 

【生活の中の音楽】

一般人の推しは、よく歌う。日常の中で出会った言葉にメロディをつけて、歌うのだ。彼女は歌うのだが、それが「歌」かと言われるとそうでもないような気がする。

僕は音楽が好きで、一人の時間はほとんど音楽を聴いて過ごしている。通学・通勤中、勉強中。好きな音楽はあれど、僕の生活の中に自分がメロディをつけて歌うということはなかった。既製の音楽を消費しているだけだった。

だから、彼女が会話の中で出てきた言葉などにメロディをつけて歌うことは僕には新鮮で、そして音楽とともに過ごしてきた自分は一緒にいて楽しく思う。彼女は作曲という意味で音楽を作ったりはしていないし、音楽関係の仕事をしていない。彼女の作るメロディはCMのような、耳にすると真似したくなるようなキャッチーなものだ。

僕は彼女が作る、その歌とも言えない歌が好きで、その日は一緒になって歌ったり、彼女が鬱陶しがっても歌い続けたりしているのだが、寝て起きるとすっかり忘れてしまう。そして彼女もまた、昨日自分で作ったメロディを忘れてしまう。

こうした儚さを帯びた一回性も、彼女の作る歌の魅力だったりする。