それがノスタルジーへと変わる前に

「音楽やってる人はかっこいい アイドルやってるコはかわいい とか あれから何年が経ったんだっけ 時々自分がわかんなくて それすらも当たり前になって 久しぶりに君と話したいね なんて思ってる 電話はしないけど」

生みの苦しみ

終わった。一般人の推しの進級のための論文、研究計画書の作成が、終わった。最後の最後までチェックして、引用文献参考文献の抜けがないかチェックしていた。焦りに焦って、半ば喧嘩しながらやっと終わった。進級できるかどうかはわからないけれども、自分にできることはやったんじゃないかと。

自分の勉強してるものと対象も違うので、その言葉を理解するのも大変だった。何より、自分でない人間の考えを汲み取りながら日本語を訂正していくのは想像を超えるきつさがあった。一度にその作業をしていくのは3000字ぐらいの文章だったが、先述したことを考慮しながらチェックし、訂正していくのに、2時間はかかるのだ。

 


研究なんて高尚なことのように思っていたが、実際いざやってみると、一連の材料を揃えた後は、時間に追われながら苦しんでアウトプットする作業だった。

きっといろんなものがそうやって生み出されているんだなあと思う。

何かを一つの形として作り上げる人は、そうやって何かを作っているんだなあと思うと、なんだかその人に対しての解像度が高まる。自分の好きな音楽とか、小説とか、映画とか、それらを作る人も似たような苦しみの中にいるんだろうなと思う。

 

特に書きたいことがないのでまだまだ頭は疲れているんだと思う。手紙も書かなきゃ。
論文手伝うことによる苦しみから解放されたおかげで、自分の論文も終わった気になっているけれど、まだ何も終わってもないし、そもそも始まってもいない。あと1ヶ月。

自分が自分であるが故の苦悩

最近ずっと聴いてる曲に、お気に入りのフレーズがある。

 


「生まれ変わる なんてなくて 地続きの日々を歩くだけ」

 


何か目の前に開かれた新しいものを見つけて、救われるような、そんな感覚を覚えることがある。

振り返ってみると、いつもそういうものに向かって進むことを是としてきた、気がする。そこに向かって進めば、今までの自分とは全く自分になれて、これまで感じてきた、自分が自分であるが故の苦悩から救われるのではないかと。

しかしその道を選んだ先には、生まれ変わるなんてことはなくて、ただ自分が自分であるという、これまでの延長の日々があるだけだった。

自分が自分であるが故の苦悩は、自分が自分であるためには必要なものだと思うし、そういうものには環境が許す限り向き合っていきたいと思っている。これが全ての答えだと思ってる。そして何より、この答え自体もかなり自分らしい、気がする。

 


先のお気に入りのフレーズは、こう続く。

「気取らず衒わず自然でいるだけ」

 

https://youtu.be/2b3j3mwA1ZI

 

アイドルと本屋

心がモヤモヤしているので、ブログを書いてからまた勉強してみようと思う。

 

先週あたり、ずっと心が沈んでいた。誰かの意見に流される事が多かった。結局自分は自分でしかないという、いつものところにたどり着いたので、やっていくしかない。

 

 

軽率に「かわいい」「好き」とか言いたくなってしまっている。軽率にそういう事言えるの、おたくの特権。アイドルのおたくからは離れて生活していて、でもやっぱりおたくやってた頃の癖みたいなのが残っているなあとしみじみと思う。

アイドルを好きになってみて、自分がどういう人間なのかということについて、自覚的になれたのは大きい。どういうことかといいますと、まあこのブログ見てる人はほぼ100%Twitter経由してきているのでわかるかと思います。そういう人間です。

アイドルのおたくにもいろんな人がいて、いろんな形で「好き」を表現している。その中でどのように在るかというのはその人らしさが出るよなと思う。あと、たまたま仲良くしてくれたおたくたちが似たような価値観を持っていたのもよかったな。本当にいい影響を受けた。

あと、手紙というものについて、改めて考えさせられたなあ。学生だし、社会人の方のようには特典券積むことができなくて、だからこそ手紙に思いの丈を書いた。「手紙を読んでもらっている時間は自分のことを考えてもらっているから、実質接触」って考え方、超好き。せっかくなら読んで、嬉しい気持ちになってもらいたいじゃんね。だから基本的に「好き」とか「僕にとって君は最高」みたいなところを目がけて書くように意識していて。iPhoneのメモには下書きを入れてて、電車の中とかでずっと文章を練っていた。

なりゆきで今は文通する人がいて、同じようにiPhoneのメモに下書き書いて、電車の中とかで修正したりしている。流石にその手紙の表現として目指す内容は違うけど。だから自分の文章の熱量が狂ってるんだよなーと思うけど、「せっかく読んでくれるのだから」という意識が離れないな。

アイドルという存在は自分の人生に影響を与えているなあと思った。大学生活の約半分がアイドルのおたくだったので、そりゃ影響与えてるわな。

 

 

 

話変わるけど。

 

note.mu

 

これ読んでから、昔から漠然とあった「いつか小さい本屋やりたい欲」が増幅し続けている。

いつかやってみたいよなあと思う。お洒落な街ではやりたくなくて、町の小さな本屋を趣味みたいな感じでやってみたいなあって。

「どんなコンセプトでやろうかな」とか考えたりしている。

いつかやりたいねえ。

green line of death

iPhoneの液晶の緑色の縦線が目立ち始めて、数ヶ月が経つ。確か夏の終わりあたりから目立ち始めた。調べたら初期不良らしく、「green line of death」と呼ばれているらしい。
はじめはピンク色の薄い線で、それから徐々に『マトリックス』的サイバーな緑色へ、今では丁度1文字分ほどの太さに成長した。
この線のおかげで連絡取ったりするのにも支障が出始めた。物理的な破損や水没がなければ無償交換してくれるらしく、今日が交換する日。いよいよこの緑色の線ともお別れか、そう思うと少し悲しくなってきたな。

 

この緑色の線に何を思い入れているのかと思うのだが、思えばこの緑の線は「平成最後の夏」とともにあったな、と。

 

「課題図書」を読むと、「どちらの物語が真に欲しいか」と問われている、そんな気がする。夏に散々繰り返した問いも、今では日常に埋もれてしまっていた。「課題図書」はそれを掘り起こしてわざわざ目の前に突きつけてきたわけだな。
昨日のゼミで指導教授から「君の夢は何かね。君の進路はそれでいいのかね。このままいくと君は今手にしているものを失うよ」的なこと言われちゃったな。表現は濁しているけれど、最後の一文、改めて文字にしてみるとかなりめちゃくちゃなこと言ってるし失礼だな。脅迫じみた言い方してるのはお酒の席だったし大目に見るとして、詰まるところは自分の教え子が欲しいんだろうと思う。
私はいずれ博士号取りたいなあと思っているので揺らいでる。別に大学の先生になりたいわけじゃないけれど、博士号は欲しい。

というか、そもそも「自分の夢」とは何だったろうか。

 


拝啓人生様

寒くなってきました。あなたが最近迫ってくる選択、一つ一つが重いので手加減してほしいです。夜は一層冷えますので風邪をおひきにならぬよう、暖かくしてください。

2018.11.3  私より

 

 

あと数時間もすれば緑色の縦線が入ったiPhoneに別れを告げる訳だが、少しばかり感傷的になってしまうな。もちろんきちんとバックアップもとってあるし、大切な写真等を失う訳ではあるまいし。
ここまで書いて、先日夜通し話し合った友人が機種変更に感傷的になってたブログ書いていたのを思い出した。そのブログに引っ張られている気もする。

同じ物語の上に生きるというのは、美しいと思う。自分は3年前とは違う物語の上にいて、一方で3年前と同じ物語の上に生きている人間もいる。星が無数にあるように、物語を照らすものはその気になればいくつも作れるはず。その中でたった一つの星を追い続けている。そういう、人としての在り方が美しくある人間が報われる世界であってほしいと、願っている。

 

そうそう、緑色の線の入ったiPhoneを見て「何かを象徴してるみたい」と、先日会った友人は言っていた。


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写真は先日のしゃべり場帰り、始発待ちのホームにて

しゃべり場

友人と会ってきた。ちょこちょこ会ったりはしていたが、最後にがっつり話した(夜通し話した)ときから3年経つけれど、当時と同じようなことを続けていて、それについての苦悩を話してくれたりして、よかった。友人もまた、巨大な感情と戦っていた。

「物語」とか、そういう視点からの話を分かってくれる人がいるというのはありがたいことだ。少しばかり、荷がおりた気がするな。ネットの海にすら放流することが憚られる言葉や感情をアウトプットできる場があるという、外界という意味での世界に対する安心感が増したので素晴らしい時間だったのではないかと思う。


昨晩友人が薦めてくれたマンガを買った。「薦めてくれた」とかいう穏やかなものではないな。「これは君の課題図書」とまで言ってたから。感想文書いて提出したり、内容合致させる問題が定期テストで出たりしないので、気楽と言えば気楽だ。夏あたりから、自分の感情や物語に適切な本やらマンガに出会っているので、乗ってみようと思う。基本的にその友人の選書はいいところを突いてくれるので。


昔、おたくがアニメの舞台となった場所に行くこと(聖地巡礼)について朝の情報番組で紹介していた。その時は特になにも思わなかったけど、今の自分を考えると、自分もある意味で聖地巡礼するタイプの人間なんだと思う。

物語を感じた相手の読んだ本や観た映画、聴いた音楽とかを追体験して相手に近づきたいと思うタイプ。物語を感じた相手のタバコを吸って黄昏るタイプの人間だ。

行為としては「聖地巡礼」と本質的には変わらないな。


文通相手が海外旅行に行くというので、写ルンですを渡した。丁度文通相手の誕生日もあったので、誕生日プレゼントということで、自分が現像に出して、プリントしたものやそのデータを渡してあげようということで。

現像されたものを見たけれど、フラッシュを焚いていないっぽくて、何枚か真っ暗だし、全体的に暗くべったりした色合いになっている。文通相手その人を知っている(つもりになっている)ので、「らしいな」と思った。

きっといつか、プリントした写真を持ってその国に一人で行って、現地の人に「これはどこですか」とか聞いて、聖地巡礼してるんだと思う。

 

そう、プレゼントといえば、ホームプラネタリウムがオススメだと。自分からの光が、相手の生活空間に写し出されることの意味について熱く語ってくれたのを思い出す。覚えておこう。

ラジオの周波数を合わせるように、愛をチューニングするみたいな話もしたな。


今日はこれから用がいくつかあるので、帰ったらゆっくり心を落ち着けて課題図書を読もうと思う。

卵が先か鶏が先か

気づいたら感情が馬鹿みたいにでかくなっている。アイドルのおたくやってた時からそれなんだけど、それまではそんなんだったっけ。

馬鹿みたいにでかくなった感情の行き場、文章を書く以外にない。それはノートに書き殴ることだったり、手紙を書くことだったり、ブログを書くことだったりする。これは大学時代に身につけた習慣だな。

 


今夜は小、中、大と同じ学校の友人としゃべろうということで友人の勤務先のすぐ近くに来ている。3年ぐらい前の夏に、夜通し人生とか芋とかについて話し合ってたな。それを最近よく思い出してるんだけれど、そのタイミングでTwitterでリプライもらっちゃって、すぐに予定合わせたよね。友人の仕事が終わるのを待っているこの時間で適当に書けたらなと思う。

 


若い男女のグループがハロウィンのコスプレして、僕の座ってるカウンター席の斜め後方に座っている。ハロウィンの夜、渋谷とか大変そうだなと思ってTwitter見てた。渋谷からここまで来たんだろうな。学部の頃はよくこういう楽しそうなグループ見るたびに、斜に構えることをしていたな。自分はそういう俗っぽいところにはいないんだとか思ってたり、他者を下に見ないと自分を保てなかったんだろうな。今は特に何も思わないというか、楽しそうだなあとしか思わない。楽しそうだけど、ああいう場にいても端っこでTwitterいじったり、気の合う数人で話したりとかして、自分好みの空間を作ってばかりだ。大人数で楽しくやるのに向いてないんだよな。

最近は斜に構えることに対して斜に構えるようになっちゃって、きっと数年経ったら斜に構えることに対して斜に構えるということに対して斜に構えるようになってると思う。卵が先か鶏が先かみたいな話だが、きっとずっと斜に構えてるんだろうなと思う。

斜に構え続けた先の人生に何があるんだろうとか思うけど、きっとどこに行ってもそう、自分好みの空間を作って生きてくんだなあと思う。

最近は卒業が近づいてて、進路を、人生を模索しているので思考が人生レベルにすぐ拡大するな。

そう、今夜は友人と久しぶりに話す日だからこういう思考の癖がついてて丁度いいぐらいだと思う。

間違い探し

最近、良いことがあった。

それは140字に収まるものではないが、かといって、ブログを書こうと思わなかった。もうこのブログも長い間、更新していないし。

ふと、友人に「日常系のブログを書いてくれ、よみたい」と言われたのを思い出した。久しぶりに、ブログを書こうと思った。


あらかじめ書いておこうと思うが、今回書くことの背後に巨大な文脈が存在していて、今回の文章だけでは全く伝わらないだろうと思うけれど、それについてはまたブログに書くかもしれないし、書かないかもしれない。

ただ、この出来事は僕が1年以上更新をやめていたこのブログを再開させる理由として、自分の中での意味づけとしても、タイミングとしても、十分すぎるものだった。

 

 


ある言語に初めて触れることとなった。それは、仲良くしてくれている人が某SNSに投稿した内容。写真から、自分へ向けられた言葉だとわかった。急いでスクショした。

しかし、僕にはそれを理解することができない。単語の意味、文法はおろか、発音さえも知らない。

この状態では、辞書さえもひくことができない。


しかし、文字の形さえわかれば、2018年の日本に生きる我々は、その言語について全く知らなくとも、インターネットを用いることで理解することができる。

 

その言語が何語かは、分かっていた。その人が第二外国語として選んでいた言語だ。その人の本棚に、文法の本が置いてあったのをうっすらと記憶している。

早速、その言語のキーボードを自分のiPhoneに入れた。メモを開き、その文章を打ち込む。

ある程度扱うことのできる言語を入力するとき、気づかないうちに頭の中で音読しながら入力している。それはこの文章も例外ではない。

しかし今回はそれができなかった、初めて扱う言語だからだ。

スクショとiPhoneのメモの間を何度も往復し、一文字一文字、形を見比べ、確認しながら打ち込んでいった。

 


間違い探しみたいだな、と思った。

 


全部で10語の文章を打ち込むのに、何分も時間をかけた。

何分もかけて打ち込んだその文章をコピーし、それを英訳してくれるサイトを探した。

インターネット上の翻訳サービスは、日本語への翻訳よりも、英語への翻訳の方が正確だと聞いたことがある。

 


先ほどコピーしたものを、貼り付ける。

「translation」のボタンを押す。

 


自分の目を疑った。

もう一度、元の文章と自分が打ち込んだものを見比べた。

どこにも間違いはなかった。

 


念のため、他の翻訳サイトも試した。

サイト間で少しばかり表現にゆれはあれど、表示されるのはどれも同じ意味の英文だった。

 


その日から、僕はふと思い出したときに、その人がくれたその言葉を英訳サイトに打ち込むようになった。

スクショとの間を何度も往復し、一文字一文字、形を見比べ、確認しながら。

そして「translation」のボタンを押し、その英訳を表示させる。


Thanks a lot. I am grateful to God that we met.

 

間違いはなかったのだと、確認するための作業だ。