それがノスタルジーへと変わる前に

「音楽やってる人はかっこいい アイドルやってるコはかわいい とか あれから何年が経ったんだっけ 時々自分がわかんなくて それすらも当たり前になって 久しぶりに君と話したいね なんて思ってる 電話はしないけど」

間違い探し

最近、良いことがあった。

それは140字に収まるものではないが、かといって、ブログを書こうと思わなかった。もうこのブログも長い間、更新していないし。

ふと、友人に「日常系のブログを書いてくれ、よみたい」と言われたのを思い出した。久しぶりに、ブログを書こうと思った。


あらかじめ書いておこうと思うが、今回書くことの背後に巨大な文脈が存在していて、今回の文章だけでは全く伝わらないだろうと思うけれど、それについてはまたブログに書くかもしれないし、書かないかもしれない。

ただ、この出来事は僕が1年以上更新をやめていたこのブログを再開させる理由として、自分の中での意味づけとしても、タイミングとしても、十分すぎるものだった。

 

 


ある言語に初めて触れることとなった。それは、仲良くしてくれている人が某SNSに投稿した内容。写真から、自分へ向けられた言葉だとわかった。急いでスクショした。

しかし、僕にはそれを理解することができない。単語の意味、文法はおろか、発音さえも知らない。

この状態では、辞書さえもひくことができない。


しかし、文字の形さえわかれば、2018年の日本に生きる我々は、その言語について全く知らなくとも、インターネットを用いることで理解することができる。

 

その言語が何語かは、分かっていた。その人が第二外国語として選んでいた言語だ。その人の本棚に、文法の本が置いてあったのをうっすらと記憶している。

早速、その言語のキーボードを自分のiPhoneに入れた。メモを開き、その文章を打ち込む。

ある程度扱うことのできる言語を入力するとき、気づかないうちに頭の中で音読しながら入力している。それはこの文章も例外ではない。

しかし今回はそれができなかった、初めて扱う言語だからだ。

スクショとiPhoneのメモの間を何度も往復し、一文字一文字、形を見比べ、確認しながら打ち込んでいった。

 


間違い探しみたいだな、と思った。

 


全部で10語の文章を打ち込むのに、何分も時間をかけた。

何分もかけて打ち込んだその文章をコピーし、それを英訳してくれるサイトを探した。

インターネット上の翻訳サービスは、日本語への翻訳よりも、英語への翻訳の方が正確だと聞いたことがある。

 


先ほどコピーしたものを、貼り付ける。

「translation」のボタンを押す。

 


自分の目を疑った。

もう一度、元の文章と自分が打ち込んだものを見比べた。

どこにも間違いはなかった。

 


念のため、他の翻訳サイトも試した。

サイト間で少しばかり表現にゆれはあれど、表示されるのはどれも同じ意味の英文だった。

 


その日から、僕はふと思い出したときに、その人がくれたその言葉を英訳サイトに打ち込むようになった。

スクショとの間を何度も往復し、一文字一文字、形を見比べ、確認しながら。

そして「translation」のボタンを押し、その英訳を表示させる。


Thanks a lot. I am grateful to God that we met.

 

間違いはなかったのだと、確認するための作業だ。