それがノスタルジーへと変わる前に

「音楽やってる人はかっこいい アイドルやってるコはかわいい とか あれから何年が経ったんだっけ 時々自分がわかんなくて それすらも当たり前になって 久しぶりに君と話したいね なんて思ってる 電話はしないけど」

コンビニアイスのゴミ

これまでしばらく合わなかった人と会うことが最近多い。昔付き合っていた人、演劇で同じ仕事をしていた人、大学で一度授業が一緒だった人、高校で姉妹クラスだった人、合計で5人。2ヶ月で5人、しかもそれまで連絡等取っていなかった人とサシで飲んでいたのでなかなかすごいと思う。

 


大学職員やりながらアイドルのおたくとしてバンバン遠征行ってる人、6年制大学を卒業してそのまま博士課程に進んだ人、将来小さい定食屋をひらきたいと言う人、制服のおたく、会社員やりつつバンドマンやってて最近アイドルのおたくになった人。

自分の知らないところで他人が人生を歩んでいるということが当たり前のようだがとても美しく思える。その人にとっての物語があって、その物語は様々なことを抱えていて、それが目の前の人によって語られる。SNS等でなんとなく知っていた人がそうしてSNSに表出しない出来事、感情を語る。会うことのなかったこの数年感をお互いに埋めていくその時間は、僕ら2人が共有していたあの頃に戻ることはできないということを突きつけつつも、ノスタルジーをまといながら光り輝いているようで好きだ。

 


今日もまた、部活の同期たちと飲んだ。僕含め4人だったが、変わっていないという感想を持った。とてもありきたりな感想だが、ありきたりな感想だからこそいいのではないだろうかとも思う。

人はそれぞれ、その人だけの文脈に乗っかって生きていると思っている。だからしばらく会ってない人に会う度に見かけ上の諸々のは変わるけれど、「君はずっとあの頃の延長で生きているんだ」と思うんだよな。

 


今日の飲み会の話に戻ると、みんな先輩やら後輩やらの情報を仕入れていたり、上司として新人を指導してて尊敬している。僕が先輩やら後輩と会ったりしてないだけなのだが、上記の尊敬の念は根本で共通していて、それは自分が「先輩」「後輩」、「上司」「部下」みたいな、その社会でのすべき振る舞いをどうしてもできないという人間であるという部分である。本当にそういう社会に与えられる役割に、嫌悪感まではいかないけれども、それに似た「これは無理だ」という感情があってできない。というのも、たかだか生まれについて、数年の時間差で敬意を持たれたり持たねばならない文化がよくわからないのである。人は苦しみながら生きていくし、結局人生の行き着く先は誰もが一緒だ。「そういうもの(先輩へは敬意を持つ)」というのは文化なんだと分かるが、「それは本質か?」と問う自分も同時に存在している。その結果が僕という中途半端にしか役割を演じられない人間を生み出している。

その結果、自分を可愛がってくれる先輩も、強烈に慕ってくれる後輩もいない、フワッとした存在であり続けた。今思えば小学生の頃から先輩とかそういうのはできていなかったな。

今もそれは変わらない。奇跡的に営業とかそういった仕事をしなくていい仕事をしているが、世の中の営業をしている全ての人には頭が上がらない。あなたたちがいるから僕が営業をしなくてもいいんだ。自分は本当に営業というものができないと思うし、尊敬している。

 


こんな不適合な人間を呼んでくれた同期とか、サシで飲んでくれる人々、本当にありがとうなという気持ちになる。

 

 

 

今日は同期との飲み会で会計のお釣りで「みんなでアイス一つずつ買おう」というイベントが発生して、その時は良い提案だと素直に思った。

たしかにそこに学生時代を見た気がする。駅までアイスを4人で食べながら歩いていると「青春みたいじゃん、もうあの頃に戻れないけど」と一人が呟いた。コンビニアイスを咥えた仕事終わりの若者4人が、銀座駅に向かって歩くというそのコントラストがとても美しかった。

自分はみんなのゴミを持たされた訳だが(こういう役割は受け入れられる)、駅のゴミ箱に捨てられずにいる。きっと家まで持ち帰ることになるだろう。

 

 

 

このアイスのゴミは、青春の残滓だ。