それがノスタルジーへと変わる前に

「音楽やってる人はかっこいい アイドルやってるコはかわいい とか あれから何年が経ったんだっけ 時々自分がわかんなくて それすらも当たり前になって 久しぶりに君と話したいね なんて思ってる 電話はしないけど」

「人生」といえばすべて人生

提出した論文はひどく恥ずかしいもので、案の定コメント担当の先生からボコボコにされた。

「学位論文に相当しない」という旨のコメント(実際はもっと婉曲的だったが)もあり、ただただ耐えて耐え抜いた質疑の時間。全発表者の中でも特に厳しいコメントを受けた。きちんと返答できているか分からないが、学位をかけている点で一歩も引けず、あの間延びした空気の中で、非常に白熱した議論が展開されていたと思う。

質疑まで終わると、聴衆は形式的な拍手をするが、自分の質疑終了後にはその拍手が始まるまでに間があった。先生の指摘が学生を潰しにかかってきているものだったから、その間には「あ、こいつ学位落とすんだろうな」という嘲笑と同情があったと思う。発表資料を画面から消すために目線を落としたときに感じた、他の発表者のときとは明らかに異質なその間を今でも思い出せるし、きっとこれからもその時のことは忘れない。公開処刑を受けるとはまさにこのことか。たしかに勉強が足りないとは思うし、まだまだ未熟だったと思う。これまでの時間の使い方、特に研究以外のことをしていた時間について後悔した。

その発表の場にいたお付き合いしてる方*1からも「論文とかそういうのはその人の性格が出る」という観点から厳しいお叱りを受けた。本当に学位取れないんじゃないかと思い、ふさぎこんだ。次の日は朝起きてソファでぼーっとしていたら夕方だったし、曖昧にお酒を飲んで「自殺 苦しくない」みたいなワードでググったりと、非常に危ない状態だったように思える。密閉された空間で練炭を燃やした上で、睡眠薬を服用して寝るという合わせ技があるらしく、自殺の方法としてこのような合わせ技があることには目から鱗だった。

 

ただ、自分には死ぬほどの勇気もなかったので、こうして文章を書いている。

 

いざ成績が公開されると、論文は高くも低くもないごく平凡な評価がつけられており、問題なく卒業できていた。それは審査会での指導の先生のディフェンスが大きかったんだとは思うが、中には「面白い研究だった、ついにこの分野にこういう研究が出てきたか」と評価する審査員もいたとか。あの公開処刑はなんだったんだろうかという気持ちになった。

ただ、これが学問なんだろうなと改めて思った。文句のつけようのない研究なんかなく、どんな素晴らしい研究と言えど、ケチをつけようと思えばケチがつけられる。特に自分の研究している分野は、方法論の部分ならいくらでもツッコミを入れられるだろう。「なぜこれを選んだのか、検討が不十分」とか。数々の批判を受けながらも、論理的に返答し、自分の論(主張)を守り抜くことでそれが認められていくことになる。これらは概念としては理解できていたが、直接的な経験で知ることができたという点で、良かったなと思う。そう思わないとやってられん。

 

「何かに対して見方や立場が違えば正反対の評価がされることがある」という、ここまで話してきたようなことについて、僕はTwitterだと「人生じゃん」みたいに表現することがある。任意の事象に対して「人生じゃん」と言ってしまえば、達観している感じや、示唆的なことを言った感じを醸し出せるので非常に便利なTwitterレトリックだ。

*1:「パートナー」という言い方も、なんかしっくりこないような気がする。概念としてはそれに相当するのだろうけれど、なんか“「彼氏/彼女」を使わないのよ、私は”みたいな、思想性が強く出てきているような気がする。いまや「パートナー」はその関係性に対するニュートラルな表現でなくなってきている感じがして、好きじゃない。