それがノスタルジーへと変わる前に

「音楽やってる人はかっこいい アイドルやってるコはかわいい とか あれから何年が経ったんだっけ 時々自分がわかんなくて それすらも当たり前になって 久しぶりに君と話したいね なんて思ってる 電話はしないけど」

現に存在するものとしての人間の愛おしさについて


ひどくハイデガー臭のするタイトルになってしまった。

でも、この世界に現に存在する人間というものは愛おしいなと一人で電車に乗りながら気持ちを抑えられなくてここに吐き出すことにした。

 


現に存在するということはいかなることか。これは別にハイデガーの現存在を特に参照しているわけではないが、同カテゴリーにおける複数の属性や選択から一つを得るということではないかと思う。

例えば水が「熱い」と「冷たい」という二つを同時に獲得すること(つまり、「熱くかつ冷たい」という状態)がありえないということである。もっと人間に近づけるのであれば、この文章を書いてる私が、この文書を読むあなたと同じ人間になることができないということである。私はあくまで生まれ落ちたこの世界に生きるしかない。

でも、生まれ落ちたこの世界において生きるしかなくとも、選択によってある程度は生きる世界を変えることができる。

 


日常的に付き合う人が変われば見える世界は変わるはずだ。どこの世界に行くのも、突きつめれば自分次第だ。

 


結婚とは、その象徴ではないかと思う。結婚という文化的かつ法的にある程度あるべき姿(一夫一妻制)が定められているものは、人生における「同カテゴリーにおける複数の属性や選択から一つを得る」現象を象徴している、そんな気がする。

 


だからこそ、同時に獲得できないものの中から一つをを選び続けてここまでたどり着き、私と同じ時間を過ごす人間たちが愛おしくもある。それに例外はない。苦手な人でさえ、ある部分では愛おしく思う。

同様の感情は、昔好きだった人から結婚報告を受けたときにも色々な思いがせめぎ合いつつも湧いてくる。本当に、幸せになってくれと思う。

 


昔の日記とかを見て、心が動かされて、手紙久しぶりに書いたりして心がおセンチになって、抽象的に書き殴ってるからよくわからないかと思うが、人生はそういうものだよという話。他者の人生というのは儚く人間は愛おしい。自分の人生も選びつつ、人間の本質に近づいていきたいよ。