それがノスタルジーへと変わる前に

「音楽やってる人はかっこいい アイドルやってるコはかわいい とか あれから何年が経ったんだっけ 時々自分がわかんなくて それすらも当たり前になって 久しぶりに君と話したいね なんて思ってる 電話はしないけど」

愛とは技術で、そして意思の力だ

昨日、元推しが再びステージに立った。髪型、頭の形が似ていたが、まるで別人のような出で立ちだった。青の照明で暗闇に薄く照らされた後ろ姿を見て、まさかと思った。そのまさかだった。

別人に見えたその人は非常にステージ慣れしていて、その振る舞いから半ば彼女だと確信したが、公式にツイートが出るまで半分は信じられないでいた。

 

彼女については、そのアイドルとしての在り方に一目置いていた人間も多かったように思える。そのファンの中には元々そのグループのファンではない人たちも含まれていた。僕も楽曲は知っており、好きでいたが、ライブに足を運ぶことになった直接の理由は彼女の存在だった。

彼女がステージを降りてからも彼女の名前を口にするおたくはいたし、そういう意味では期待に応えた形か。

彼女もこの空白の二年間に、それらの声を見て決断したことだろう。当時学生だった彼女は、この二年間、何を思い、悩み、3月16日、渋谷WOMB のステージに立つ決心をしたのだろう。それらについては彼女の口から語られるかもしれないな。

 

2年前、恋人もいなかった自分は、持ってるリソースをおた活に全振りしていた。学生でそんなに稼ぎもないのに毎週毎週現場に通って、チェキを撮り、お話しして、お手紙を渡したり。そのオタ活を維持するためにめちゃめちゃシフト増やしてたな。おたく始めてから注ぎ込んだお金を全部貯金にまわしていたら、きっと大学院の学費なんて自分で捻出できたはずだ。恋人も作れただろう。でもあの時の自分にとっては、恋人でなくアイドルという存在が必要だったんだと思う。一般的に理解されにくい時間やお金の使い方だけれど、そうして得た経験は、今の恋人に対する振る舞いであったり、文通相手との距離の取り方だったり、そういったものに還元されていて、確実に今に活きている。アイドルとは僕にとって、「好き」を煮詰めた存在であるので、偶像的かつ、抽象的な存在である。だからこそ、友人であったり恋人であったり、自分が好きだと思う人との関わり方に対するヒントが得られる。「愛は技術だ」と言ったのはエーリッヒ・フロムだが、人生にアイドルのおたくの経験を位置付けるとしたら、この言葉を添えたい。

 

で、そんな大学時代を費やして推していた彼女がステージに戻ってきて嬉しいと思うのが普通なんだろうけれど、この二日間、ずっとモヤモヤしていた。

それは、きっと当時のような推し方ができないことに由来してるんだと、別れてからジャニーズのオタクになっていた元恋人と話していて思った。もう恋人もいるし、勉強ももっとしないといけない、でも元推しがステージに戻ってきたわけだから自分は推したい。その感情の揺れを、葛藤を、恋人ができてからというもののずっと抱えてきた。それを改めて提示された訳で、それには自分なりの答えを出していかなくちゃなと思わされた。

今日飲んだ元恋人は僕の上記一連のモヤモヤを聞いて、「応援は義務になったらダメ」をおたくとしてのモットーとしているという話をしてくれた。これは聞いたこともある話で理解もしている話だが、改めてそれを聞いてハッとした。別に元推しにとって自分はそんなに大きな存在ではないし。ただ、「情」とか言われたりする類の気持ちなのかもしれないが、彼女を素敵に思う気持ちは残っているわけで。おたくとしての自分と生活者*1としての自分のバランスについては、これからまた模索していかなくちゃなと思う。

「応援は義務になったらダメ」と警鐘を鳴らしてくれた元恋人、なんでこうして飲んだりしているのも不思議だが、おたくとしての自分についてモヤモヤしていた自分に、考える道筋を立ててくれたという点で感謝している。人は必要な時に必要な物語と出会うのだ。

 

こうして改めて考えると、社会人として生きていながらおたくをしている人たちというのも同じような問題にぶつかっているはずだ。そう考えると、おたくやっている人を尊敬するばかりである。生活者としての自分に潰され、おたくとして死ぬことは往々にしてある。自分も現在おたくとしては棺桶に片足を突っ込んでいるようなものだ。しかし、やっぱりおたくが自分の推しについて語っている時の瞳は輝いて生き生きしているし、自分に今足りていないのは推しの存在だったと、松島聡くんについて熱く語る元恋人の姿を見て思った。それゆえにやっぱりうぉーうぉーとぅーみーさん、関根ささらさんのことは、自分なりに、生活者としての自分とのバランスをとりながら推していきたい。この二人がいなくなったら、おたくとして死んでもいいなと(今は)思っている。

 

人だったり作品だったり、何かを継続的に好きでいる、つまり何かを愛するというのは、愛というのは感情ではなく、むしろ意思の力であると僕は思っている。

 

うぉーうぉーとぅーみーさん、おかえりなさい。

 

 

*1:家、学校や会社など、おたくとしての自分と関係ない場面における自己

「人生」といえばすべて人生

提出した論文はひどく恥ずかしいもので、案の定コメント担当の先生からボコボコにされた。

「学位論文に相当しない」という旨のコメント(実際はもっと婉曲的だったが)もあり、ただただ耐えて耐え抜いた質疑の時間。全発表者の中でも特に厳しいコメントを受けた。きちんと返答できているか分からないが、学位をかけている点で一歩も引けず、あの間延びした空気の中で、非常に白熱した議論が展開されていたと思う。

質疑まで終わると、聴衆は形式的な拍手をするが、自分の質疑終了後にはその拍手が始まるまでに間があった。先生の指摘が学生を潰しにかかってきているものだったから、その間には「あ、こいつ学位落とすんだろうな」という嘲笑と同情があったと思う。発表資料を画面から消すために目線を落としたときに感じた、他の発表者のときとは明らかに異質なその間を今でも思い出せるし、きっとこれからもその時のことは忘れない。公開処刑を受けるとはまさにこのことか。たしかに勉強が足りないとは思うし、まだまだ未熟だったと思う。これまでの時間の使い方、特に研究以外のことをしていた時間について後悔した。

その発表の場にいたお付き合いしてる方*1からも「論文とかそういうのはその人の性格が出る」という観点から厳しいお叱りを受けた。本当に学位取れないんじゃないかと思い、ふさぎこんだ。次の日は朝起きてソファでぼーっとしていたら夕方だったし、曖昧にお酒を飲んで「自殺 苦しくない」みたいなワードでググったりと、非常に危ない状態だったように思える。密閉された空間で練炭を燃やした上で、睡眠薬を服用して寝るという合わせ技があるらしく、自殺の方法としてこのような合わせ技があることには目から鱗だった。

 

ただ、自分には死ぬほどの勇気もなかったので、こうして文章を書いている。

 

いざ成績が公開されると、論文は高くも低くもないごく平凡な評価がつけられており、問題なく卒業できていた。それは審査会での指導の先生のディフェンスが大きかったんだとは思うが、中には「面白い研究だった、ついにこの分野にこういう研究が出てきたか」と評価する審査員もいたとか。あの公開処刑はなんだったんだろうかという気持ちになった。

ただ、これが学問なんだろうなと改めて思った。文句のつけようのない研究なんかなく、どんな素晴らしい研究と言えど、ケチをつけようと思えばケチがつけられる。特に自分の研究している分野は、方法論の部分ならいくらでもツッコミを入れられるだろう。「なぜこれを選んだのか、検討が不十分」とか。数々の批判を受けながらも、論理的に返答し、自分の論(主張)を守り抜くことでそれが認められていくことになる。これらは概念としては理解できていたが、直接的な経験で知ることができたという点で、良かったなと思う。そう思わないとやってられん。

 

「何かに対して見方や立場が違えば正反対の評価がされることがある」という、ここまで話してきたようなことについて、僕はTwitterだと「人生じゃん」みたいに表現することがある。任意の事象に対して「人生じゃん」と言ってしまえば、達観している感じや、示唆的なことを言った感じを醸し出せるので非常に便利なTwitterレトリックだ。

*1:「パートナー」という言い方も、なんかしっくりこないような気がする。概念としてはそれに相当するのだろうけれど、なんか“「彼氏/彼女」を使わないのよ、私は”みたいな、思想性が強く出てきているような気がする。いまや「パートナー」はその関係性に対するニュートラルな表現でなくなってきている感じがして、好きじゃない。

鬱々と文章書いて、気づいたら推しの話してた

先日、ゼミをサボった。

論文提出まであと1ヶ月というタイミングで、進捗もダメなのですが、休むしかなかった。人間関係を保つのが苦手。月一回とか会う程度ならいいけれど、週一とかそれ以上の頻度で顔を合わせて、関係を良好にやっていくのがどうしても無理。ある程度やっていく関係性の型も用意されているのに、それをやれば良いことも分かっているのに、肥大化した自己がそこに馴染むことを拒む。

中学までは絵に描いたような優等生だったなあと思う。野球部で成績優秀、人柄も良いように振舞っていたと思う。高校、大学でそういうのってどうなの、無理してるんじゃないのみたいになって、そういう振る舞いも辞めた。そういう振る舞いを今もできていたら、今頃どこかの会社で営業とかやってたんだろうな。

でも今現在仲良くしてる人たち、今の馴染めない自分じゃなかったら仲良くなってないなあと思うし、まあいっか、という気もするな。

 

なんて、一日自分の部屋で考えていた。仮病(という名の心を壊さないために必要な休日)で休んだりしていたらどこかいったり、非日常を楽しんだ。先日、休んだその日はずっと家で過ごしていた。せっかく休んだのに、非日常にすらできなかったな。

 

 

そうそう、最近いいこともあって。好きな人(アイドル)こと関根ささらさんがシロカ株式会社のイメージキャラクターになりました。

シロカ株式会社

 

YouTubeで動画も公開されているので見てね。できたらチャンネル登録もお願いします。

www.youtube.com

 

 

オススメの家電はこちらです。電気ケトルとしても、小さい鍋としても使えて、結構いいのでは?と思っている。おたくなんですけれど、レビュー記事とか書いてみたい。

おりょうりケトル ちょいなべ│シロカ株式会社

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おりょうりケトル ちょいなべ

 

ついさっきまで憂鬱な気分でこのブログ書いてたんですけれど、関根ささらさんのこと書いたら元気出てきたので、推しに向ける好きって最高の感情じゃないですか。もう頻繁にライブとか行かないともうけれど、何か自分にできる応援の仕方はあると思っていて、模索していきたいなあと思う。

まあ、その前に論文終わらせないといけないのでまた明日から頑張ろうかなあと思った。

 

すごい情緒不安定なブログ書いてるし、話の振り幅もすごいのでタイトルも変えなきゃ

生みの苦しみ

終わった。一般人の推しの進級のための論文、研究計画書の作成が、終わった。最後の最後までチェックして、引用文献参考文献の抜けがないかチェックしていた。焦りに焦って、半ば喧嘩しながらやっと終わった。進級できるかどうかはわからないけれども、自分にできることはやったんじゃないかと。

自分の勉強してるものと対象も違うので、その言葉を理解するのも大変だった。何より、自分でない人間の考えを汲み取りながら日本語を訂正していくのは想像を超えるきつさがあった。一度にその作業をしていくのは3000字ぐらいの文章だったが、先述したことを考慮しながらチェックし、訂正していくのに、2時間はかかるのだ。

 


研究なんて高尚なことのように思っていたが、実際いざやってみると、一連の材料を揃えた後は、時間に追われながら苦しんでアウトプットする作業だった。

きっといろんなものがそうやって生み出されているんだなあと思う。

何かを一つの形として作り上げる人は、そうやって何かを作っているんだなあと思うと、なんだかその人に対しての解像度が高まる。自分の好きな音楽とか、小説とか、映画とか、それらを作る人も似たような苦しみの中にいるんだろうなと思う。

 

特に書きたいことがないのでまだまだ頭は疲れているんだと思う。手紙も書かなきゃ。
論文手伝うことによる苦しみから解放されたおかげで、自分の論文も終わった気になっているけれど、まだ何も終わってもないし、そもそも始まってもいない。あと1ヶ月。

自分が自分であるが故の苦悩

最近ずっと聴いてる曲に、お気に入りのフレーズがある。

 


「生まれ変わる なんてなくて 地続きの日々を歩くだけ」

 


何か目の前に開かれた新しいものを見つけて、救われるような、そんな感覚を覚えることがある。

振り返ってみると、いつもそういうものに向かって進むことを是としてきた、気がする。そこに向かって進めば、今までの自分とは全く自分になれて、これまで感じてきた、自分が自分であるが故の苦悩から救われるのではないかと。

しかしその道を選んだ先には、生まれ変わるなんてことはなくて、ただ自分が自分であるという、これまでの延長の日々があるだけだった。

自分が自分であるが故の苦悩は、自分が自分であるためには必要なものだと思うし、そういうものには環境が許す限り向き合っていきたいと思っている。これが全ての答えだと思ってる。そして何より、この答え自体もかなり自分らしい、気がする。

 


先のお気に入りのフレーズは、こう続く。

「気取らず衒わず自然でいるだけ」

 

https://youtu.be/2b3j3mwA1ZI

 

アイドルと本屋

心がモヤモヤしているので、ブログを書いてからまた勉強してみようと思う。

 

先週あたり、ずっと心が沈んでいた。誰かの意見に流される事が多かった。結局自分は自分でしかないという、いつものところにたどり着いたので、やっていくしかない。

 

 

軽率に「かわいい」「好き」とか言いたくなってしまっている。軽率にそういう事言えるの、おたくの特権。アイドルのおたくからは離れて生活していて、でもやっぱりおたくやってた頃の癖みたいなのが残っているなあとしみじみと思う。

アイドルを好きになってみて、自分がどういう人間なのかということについて、自覚的になれたのは大きい。どういうことかといいますと、まあこのブログ見てる人はほぼ100%Twitter経由してきているのでわかるかと思います。そういう人間です。

アイドルのおたくにもいろんな人がいて、いろんな形で「好き」を表現している。その中でどのように在るかというのはその人らしさが出るよなと思う。あと、たまたま仲良くしてくれたおたくたちが似たような価値観を持っていたのもよかったな。本当にいい影響を受けた。

あと、手紙というものについて、改めて考えさせられたなあ。学生だし、社会人の方のようには特典券積むことができなくて、だからこそ手紙に思いの丈を書いた。「手紙を読んでもらっている時間は自分のことを考えてもらっているから、実質接触」って考え方、超好き。せっかくなら読んで、嬉しい気持ちになってもらいたいじゃんね。だから基本的に「好き」とか「僕にとって君は最高」みたいなところを目がけて書くように意識していて。iPhoneのメモには下書きを入れてて、電車の中とかでずっと文章を練っていた。

なりゆきで今は文通する人がいて、同じようにiPhoneのメモに下書き書いて、電車の中とかで修正したりしている。流石にその手紙の表現として目指す内容は違うけど。だから自分の文章の熱量が狂ってるんだよなーと思うけど、「せっかく読んでくれるのだから」という意識が離れないな。

アイドルという存在は自分の人生に影響を与えているなあと思った。大学生活の約半分がアイドルのおたくだったので、そりゃ影響与えてるわな。

 

 

 

話変わるけど。

 

note.mu

 

これ読んでから、昔から漠然とあった「いつか小さい本屋やりたい欲」が増幅し続けている。

いつかやってみたいよなあと思う。お洒落な街ではやりたくなくて、町の小さな本屋を趣味みたいな感じでやってみたいなあって。

「どんなコンセプトでやろうかな」とか考えたりしている。

いつかやりたいねえ。

green line of death

iPhoneの液晶の緑色の縦線が目立ち始めて、数ヶ月が経つ。確か夏の終わりあたりから目立ち始めた。調べたら初期不良らしく、「green line of death」と呼ばれているらしい。
はじめはピンク色の薄い線で、それから徐々に『マトリックス』的サイバーな緑色へ、今では丁度1文字分ほどの太さに成長した。
この線のおかげで連絡取ったりするのにも支障が出始めた。物理的な破損や水没がなければ無償交換してくれるらしく、今日が交換する日。いよいよこの緑色の線ともお別れか、そう思うと少し悲しくなってきたな。

 

この緑色の線に何を思い入れているのかと思うのだが、思えばこの緑の線は「平成最後の夏」とともにあったな、と。

 

「課題図書」を読むと、「どちらの物語が真に欲しいか」と問われている、そんな気がする。夏に散々繰り返した問いも、今では日常に埋もれてしまっていた。「課題図書」はそれを掘り起こしてわざわざ目の前に突きつけてきたわけだな。
昨日のゼミで指導教授から「君の夢は何かね。君の進路はそれでいいのかね。このままいくと君は今手にしているものを失うよ」的なこと言われちゃったな。表現は濁しているけれど、最後の一文、改めて文字にしてみるとかなりめちゃくちゃなこと言ってるし失礼だな。脅迫じみた言い方してるのはお酒の席だったし大目に見るとして、詰まるところは自分の教え子が欲しいんだろうと思う。
私はいずれ博士号取りたいなあと思っているので揺らいでる。別に大学の先生になりたいわけじゃないけれど、博士号は欲しい。

というか、そもそも「自分の夢」とは何だったろうか。

 


拝啓人生様

寒くなってきました。あなたが最近迫ってくる選択、一つ一つが重いので手加減してほしいです。夜は一層冷えますので風邪をおひきにならぬよう、暖かくしてください。

2018.11.3  私より

 

 

あと数時間もすれば緑色の縦線が入ったiPhoneに別れを告げる訳だが、少しばかり感傷的になってしまうな。もちろんきちんとバックアップもとってあるし、大切な写真等を失う訳ではあるまいし。
ここまで書いて、先日夜通し話し合った友人が機種変更に感傷的になってたブログ書いていたのを思い出した。そのブログに引っ張られている気もする。

同じ物語の上に生きるというのは、美しいと思う。自分は3年前とは違う物語の上にいて、一方で3年前と同じ物語の上に生きている人間もいる。星が無数にあるように、物語を照らすものはその気になればいくつも作れるはず。その中でたった一つの星を追い続けている。そういう、人としての在り方が美しくある人間が報われる世界であってほしいと、願っている。

 

そうそう、緑色の線の入ったiPhoneを見て「何かを象徴してるみたい」と、先日会った友人は言っていた。


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写真は先日のしゃべり場帰り、始発待ちのホームにて