それがノスタルジーへと変わる前に

「音楽やってる人はかっこいい アイドルやってるコはかわいい とか あれから何年が経ったんだっけ 時々自分がわかんなくて それすらも当たり前になって 久しぶりに君と話したいね なんて思ってる 電話はしないけど」

人間を消費しないということ

前のバイト先の友人と、お客さん、そして僕の3人でバイト先の近くでご飯を食べてきた。昨年の春に始めたバイトだ。

帰路、昨年秋に聴いていた曲をまとめたプレイリストを聴いていた。通勤までの1時間、そして21時に上がってから家に帰るまでの1時間、聴き続けた曲たちだ。この季節もののプレイリストには自分が出会った曲を閉じ込めている。季節もののプレイリストを作り始めたのは「サマージャム'95」の影響かどうかは今となっては定かではないが、新しい季節のプレイリストを作りながら「夏用のテープとかはしっかり作るのよ」という言葉を思い出さずにはいられない。

話を戻して、季節もののプレイリストには自分が好きでない曲も入れている。例えば、フロントメモリーサイレントマジョリティー。神聖かまってちゃん欅坂46の曲だ。僕の中でこれらの曲はいい曲と評価しつつも、好きとまでは言えない曲である。

いつも文通相手と2ヶ月に一度ぐらいは飲むのだが、飲んだ後は決まってカラオケに行く。僕はラップを中心に、彼女は椎名林檎やら神聖かまってちゃん、48あるいは46系のグループの曲を歌う。この間行ったときには「私たち全然音楽の好み違いますね」と呟いていた。「だからいいんじゃん、多様性だよ多様性」と酔いながらも咄嗟に返したのをおぼえているが、彼女の歌っていた曲をその季節のプレイリストに忍ばせたりしているので、自分の返答は本音だったと言えるな、と今振り返りつつ思う。

 

 

 

最近はやり場のない感情に悩まされている。だからこうしてここに文章を書いているわけだが。

 

そしてブログを継続して読んでくださる数少ない人たちはお気づきでしょうが、やっぱり僕にとっては文通相手との関わり(つまり文通)が再開されたというのは大きい。そしてこの関係自体が「文通相手」を大きく超えた何かである。一年前は軽率にTwitterに書けるものであったが、いつからか「そういう形で表現することは関係性の消費であって許せない」という自己ルールができた。だからこうしてブログに書いている。これも自分の中で「許せない」関係性の消費の一種なのかもしれないが、ここまで見る人が限られているという点でTwitterよりも消費されにくいと思っている。

 

アイドルのおたく活動ができていないのも、この、人間を消費することに対する忌避から来ているんじゃないかと最近思うようになった。関根ささらさんはおたくがいうところの推しにあたるものだ。しかし今の現場に行かない、ツイートもしないというスタンスには、僕の中で関根ささらさんという存在がTwitterで安易に言及できるものでなくなった、つまり消費したくない、より特別ものになったということが大きい。僕がもっと彼女よりもはるかに年上だったら、あるいは彼女が僕よりもっと年上だったら長く現場に通ったりして続けられたかもしれない。でも同世代かつ本気で幸せになってほしいと思う女性を、女性性を煮詰めた象徴的存在としてのアイドルという形で消費したくないという僕なりの信念がある。そこを割り切れたらいいのだが、無理だ。めんどくさいおたくでごめん。東京コミコンの動画にコメント書いたり、グラビア掲載されている雑誌にハガキ送ったりしてるので、これでトントンということで折り合いをつけている。

 

話を戻すが、やはり文通相手に関しては特別……というと恋愛の文脈で手垢のついたような言い回しがありそのような文脈の言葉との誤解がありそうなので、他の言い回しをすると、他の出来事では代替できないような感情になる。僕にとって、文通相手との関わりは人間と人間が関わるということにおいて非常に本質的なことのように思える。恋愛、友情、家族の絆などの関係性を表す言葉の枠組みに当てはまらない関係。

むしろ配偶者や恋人(あるいはそれに類する関係)、友人、家族などという、人間と人間の関係性は多くの人間がそれらについての共通認識を持ち、それに基づいて存在していると言える。恋人なら、友人なら、家族ならどう振る舞うべきか。一定の答えのようなものがあり、それを逸脱しないようにして我々は他者と関係し、生きている。

むしろ「恋愛、友情、家族の絆などの関係性を表す言葉の枠組みに当てはまらない関係」を見つけるのは困難ではなかろうか。現実では先生、生徒、同級生、バイト仲間、先輩、後輩、上司、部下という言葉と役目が与えられるし、職場に行けば「家族構成は」「恋人はいるの」と聞かれる。インターネットに目を向ければ「友達」、「フォロワー/フォロイー」と規定される。関係性には初めから言葉が与えられることが多い世界に生きている。人は既存の言葉で表現できないものについて不安になるのか、次々と言葉が生み出される。セフレ、ソフレ、インスタ映え

自分もここ1年間、ずっと文通相手を言葉に規定しようとしていたことに気づいた。配偶者や恋人(あるいはそれに類する関係)、友人、家族などという言葉は全く違う。では何か。救済、違う世界線の恋人、違う世界線での自分。

不毛だった。

どれも間違っているようで間違っていないし、間違っていないようで間違っている。決定的な言葉は見つけることはできないでいる。彼女はあくまで彼女のままだった。

 

でも、文通相手とはなんなのか、何かしらの言葉をあててみたいという思いは今でもある。意味がないと分かっていながらも、文通相手とは僕の人生においてどのような存在なのかを位置づけたい。位置づけるためには文通相手について考え、彼女に関する言葉を生み出し続けないといけない気がする。

 

配偶者や恋人(あるいはそれに類する関係)、友人、家族などという要素を持たない、しかし深く関わる他者というのは、一体何なのか。

 

文通相手とは最低限のLINEのやりとり(飲む予定を合わせるなど)のみ、Twitterなども繋がっていない(もしかしたら見られているかもしれないが)。純粋に手紙と、飲む時のコミュニケーションのみだ。文通相手との関係は、他者と深く関わることの本質に向かっている気がする。

 

 

 

他者との関わりの本質は、消費やそれに似たものであってはいけないと思う。

 

 

 

文通相手と連絡がついて、文通を再開させてからというもの、こういったことを毎日考えているのでどんどん溜まってきて、お酒をのんだりすると、こうして書きたくなる。また感情になった時はここに書くと思うし、最近はこういうのを作品として昇華できたらな、という思いから、いつかこの行き場の無い文通相手への感情をもとに小説を書いてみようなどと企図している。ただ書くまでの道のりがよくわからないし、世界を描写するのは苦手だ。勉強あるいは練習しないと。