それがノスタルジーへと変わる前に

「音楽やってる人はかっこいい アイドルやってるコはかわいい とか あれから何年が経ったんだっけ 時々自分がわかんなくて それすらも当たり前になって 久しぶりに君と話したいね なんて思ってる 電話はしないけど」

191210

【この雑記について】

この雑記を始めた動機は、心に浮かんだ由無し事をiPhoneのメモ帳に書き溜めていて、それをネットの海に流したいと思っただけですね。

 


【新聞】

最近、電子版の新聞の購読を始めた。初めの2ヶ月は100円となっている。信憑性が低いネットの記事や、あたかもきちんと裏を取っているような語り口でフェイクニュースが拡散されるTwitterにうんざりしてきた。昔からTwitterにお金を払ってでも利用したいと思っているが、情報のプラットフォームお金を払いたいということなのだと気づいて「ああ、新聞読めばいいのでは?」となった。

一連の政府の問題に対して、ジャーナリズムという点で毎日新聞さんが頑張っていらっしゃるので、購読させていただいている。

どの世界でも、意思を強く持つ者が報われていて欲しい。

 


【ケムリ】

学生時代の同期と飲んだ。みんな結婚いつするだの、そんな話をしていた。少し会社員とは違うところのキャリアを志向しているから、転職とかそういった諸々の話にはついていけないなあ、と思った。

彼らに思い切って文通相手の話をしてみたが、断片的な説明しかできなかった。彼女について少なくない言葉を重ねてきた自分が、彼女について説明するための言葉を持っていなかったことに気づいた。

タバコの煙はそこにあり、確かに香るのに、手に取ることはできない。この感情とはそれに似ている。そもそも感情とは手に取ることができないものだろう。しかし感情というのは捉えられると考えている。楽しい嬉しい悲しい寂しい切ない。全て言葉が与えられている。その意味で捉えることができる。

関係性もそうだ。恋人友人家族先生学生店員客。しかし一握りの人間と結ぶ関係には言葉が与えられていない、ただそこに巨大な感情が横たわっている。それを、たかだか数時間の飲み会で、全部説明できない、当たり前だ。

 


【研究という表現行為】

修士課程を卒業して半年以上経って、研究という営みがある程度理解できるようになった。

自分のお世辞にも上出来とは言えない、ツッコミどころ満載の論文。見返すのも恥ずかしい。しかしこの程度のものでも修士は取れてしまうし、大学で教えている人間に「この程度の見識しかないんか」と思うこともある。

修士課程は研究のルールを覚える場所」という話を先生たちが言っていた。僕の修士での研究は方法としてはエスノグラフィーに、人間の捉え方としては「ケアの倫理」に立脚している。今後やりたい研究はそこらへんに集約される感じがする。

修士課程での研究は指導教員の影響を受けている。今後やりたい研究が修士課程での研究が影響の延長にあるということは、究極的には指導教員の影響の延長にあるということだ。

大学入学してすぐの頃、「研究とはクリエイティブ」という話をされたのを思い出す。文学部棟の大教室に2〜3専攻ごとに新入生を集めた講義があった。

僕は最近、ハイデガーの『存在と時間』における人間理解が現在の専門領域における人間理解と近いことに気がついた。僕は学部の頃、哲学専攻だった。先の気づきも、おそらく哲学をやっていたことに起因している。

自分のバックグラウンドは、やはり研究に少なからず影響する。研究とは表現行為だ。